(そう考えるだけで、ふたたび

「概観」へ連れ戻される。ヨーロッパにはまだ昔ながらの配置を留める博物館がいくつかあるが、そこのギリシアの壺の展示室や回廊などは、足を踏み入れるだけで、めくるめく心地がしてしまう。硝子ケースひとつひとつの中で、一部しか見えないこともままある、あのまるみを帯びた表面の上に、物語が生じているのだ。神々や英雄たちの生涯を語る逸話の、たゆまぬ反復―これを眺めていると、異説における反復と再表象の必然性が、それらの物語の生理に属しているのだと考えずにはいられない。しばしば、鑑賞する人が戸惑わないように、何も見逃したりしないように、登場人物の名前がそこに添えられている。御覧なさい、これがアテナ、これがヘルメスと、まるで諭すように。あたかも、これらの形象が描かれていなければ、液体を取り込んだり、捧げたりといった、第一に生命に不可欠の行為が、許されないとでも言うかのようだ。物語はいく重にももつれている。これをほぐし、編み直すために、神話作家が必要であった。そのうち、物語を語り継いだ無数の壺作り職人の手を見分けるために、J・D・ビーズリーの精密さが必要となった。とはいえ、壺作り職人であれ、神話作家であれ、学者であれ、何も知らない鑑賞者や読者であれ、概観という技術を駆使する必要があるのは変わらない。解き放たれるかどうかがインドラ神の腕ひとつにかかっていた。かの天上の海のごとく、わたしたちひとりひとりにこれまでのしかかっていた、あの「幻想のマッス」がふたたび噴出されることを、すくなくともベンに起きたように、望むのであれば。)

お題「ひとりの時間の過ごし方」

(隣にいた河田さんが「はい、カワグチさん」と声をかけて両手を差し出した。するとカワグチさんは思わず差し出された河田さんの手にボールを譲る。

「誰にでもいいから」というのはカワグチさんには難しい。でも誰かにこわれれば、ぽんと渡してくれる。

河田さんが代わりにボールを他のメンバーにポウンと弾いて、またゲームが再開される。

カワグチさんは、ボールが来るたびにへへぇと笑ってあたりを見回す。ここはどうにも解決のしようがない。

でも河田さんが「はい」と手を差し出すと、カワグチさんは素直にボールを河田さんに渡す。河田さんがぽーんと弾く。

へへぇ、ぽーん。

繰り返すうちに、なんだかカワグチさんと河田さんのやりとりがゲームの儀式のように見えてくる。マエバシさんも、もうせかすこともない。

これはこれでバレエボールだ。そして、なかなかいいリズムだ。)

介護するからだ (シリーズ ケアをひらく)

介護するからだ (シリーズ ケアをひらく)

ちょっとちょっとまー鱈の木瓜

お題「ここで一句」

 

今発売中の美術手帖に載っている渡辺真也という人(twitterが興味深い....)の赤瀬川源平の”遺作”にまつわるあれこれを読み、(実物)を見ておけばよかったなあと後悔させられた。

 

「重症的非決定」(吉本)だの「パン・フォーカスで歴史をとらえる」(花田)だのと差別化を図って己の頭の中でこねあげたボールを投げ合うような批評家の所業は、すでに作家の手のうちに実現されているのだ、と言えなくもなく(なくなくない?)

(楕円関数

http://www.youhuaaa.com/UploadFiles/images/Painting_Pic_Full/101/50474.jpg

P1(U)の、G2=0、G3=4である場合の様相といった無味乾燥な述語のなかに、その製作者たちによって分類整理されている数学的オブジェを、それらよりも魅力的な呼称に見あう詩的オブジェと対立させようとするのは、とざされた合理主義の罠にふたたびおちいるようなものだろう。ついでに注意しておきたいのは、詩的オブジェを誕生させた思想が、このうえない確実なちょうやくによって抽象から具象へと進んできたということであり、他方その間にも、現代芸術のある部分(抽象主義)は、あくまでもその反対の方向に固執しつつ、発表されたあれこれの資料からも明らかなように、その作品実現の決定的な遅れを衆目の前にさらしているのだ。)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Portr%C3%A4t_Paul_Ranson.jpg

ART BANK特選 シリーズ1@韓国文化院

韓国の主に文化的なあれこれに最近興味を持って少し調べようとするとたいてい10年、20年の単位で物や事、システムが激変したりしているので感じが掴みづらくて(そもそも誰のせいだと思ってんだよって話かもしれないがそれはまあ)、このうちらのモダンなアートをちょいとお隣さんにレぺゼン、みたいなのも冒頭に置かれる成り立ちをまとめたパネルの前で一寸頭を悩ませたあとま、いい、こうゆうんは今、ちょっと無理、と見切って速やかに鑑賞に移った。

でも最初の絵からいきなりこれはヒストリカルななんやかんやをアレしないと観れないやつですよね多分、て感じで(いや適切な教材と機会さえあれば学びたいのはヤマヤマなのですが....)、しかも古の画風の伝播と変容に関する興味深い催しは人がよそ見をしている間に昨秋上野のほうで速やかに行われてしまった後らしく(シンポジウム、講演、面白そうだったなあ....なんか中止になったらしいやつなんか特に)なんとなく、透けて見えるみえないものを勘案しつつ上ったり下りたり。

円と星、それに反射に関して、いくつかの作品をコンビネイションとしてみることも可能であるように配置されているようで、やはりここにはシャレオツな人材が、という浅い疑惑を独り勝手に裏付ける事に成功。

ラスト三枚がまたカッコいい。抽象、表現主義、構成主義、それにポップ(みんが!)の間を素早く行きつ戻りつできるアングルに自分たちを位置付けることの地理的歴史的権利の可能性へのささやかな主張、というのはちっとも悪いことでも無いし、子どもっぽく振るまわなければいけない業も、卑屈に遜る必要もこれっぽちも、ないのだ。

第一期は14日(火)までで、二期は16日から来月の18日(火)まで、楽しみ~。なお日曜はお休み。

 

写真分離派「写真の非倫理 - 距離と視角」@ NADiff Gallery a/p/a/r/t

"非倫理"って、アイデアとしては別に新しくないかもしれないけれど、何故かは知る由もないちの漲りを四方に延ばされた幾枚かのプリントと組み合わせると、たちまち謎の説得力が。

倫理ってのはよく知らないけどカントなんでしょ(カント?)、じゃ、非がつくと何なのヘーゲルなのそーなの?ってでもたぶん(読んでないし当分読むつもりもないけど)ちがくて、いろいろな思惑を裡に秘めた数人が集まって、適当な場所を得て、何度かの試行錯誤のうちに自然と出てきた感じの好ましく羨ましい良さがある。怨恨は抜き。

ここの陳列された品々を一瞥しつつ階段をぐるりと降りたところの空間はいいなあといつも思っていたんだけれど、今回もうまく設えられていて、いつものオブジェ君もかわいく鑑賞しているのを背中(あるんか?)からよしよしって。

二階は二階で素晴らしく、色がいろいろ。置いてあるロンドン発のかっこよくて新しいのを素早く訳されたcurated bookもイイ!(でも高いから買えない!!

上下からの圧のせいなのか、一階では来るたびに写真集が増えて、30%、半額、え~いもってけ八割引きだ~!みたいのにもかかわらず売れ残りの棚の苔タチに哀愁を覚えつつ、そ~だここら辺のことは蔦屋で調べようっと(あそこならだれも寄り付かないので落ち着いていつまでも眺めていられるしね)思って財布を出すそぶりのひとつも見せずに冷静に店を後にしたわたしでした。

 

before and again - まえとふたたび - 竹本真理@Open Letter

 無茶苦茶良いロケーションで無茶苦茶気合の入った展示を見てしまってハナジ出た。

調べてみたらどうやら今日日のいかずのいけすにはまれな粋筋の方々の仕事のようで、こんなのを偶然期せずして発見してしまう自分、持ってますよね―はっきり云って、かいえんかいえんかいえんぺーぱー....

反射と対称、解放と縮減、増殖と凝視、計測と無限、等々、等々....

軽やかでかつ安くない素材の扱い方は(もう当然言われているのだろうけれど)福田尚代を思わせるような。

クレーの

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ジャコメッティの

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とかの

世界の中に潜入してみたら?あるいはこんなかんじかも、という....

身体のそこらここらで気が付かなかったアナがあくような気持になるような高気圧に耐えきれずに短時間でタマらず室をあとに。

そんなこんなが、こちらのタダの気にし過ぎだったのかどうかなんてのはもう撤収されているだろうから二度と確認できませんが大変印象深い体験....

突然ですが

ここで一曲、

♪げつようとかようとすいようともくようときんようとどようのとびらがひらーかなーい♬

♪げつようとかようとすいようともくようときんようとどようのとびらがひらーかなーい(^^♪

あんなにくーるにしてたのに こわれてもあかいないどあがある♪

どーしょ♪

どーしょ♪

お ぱっきゅらまーの ぱっきゅらまーの ぱおぱおぱぱぱ

お p(ry