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野中モモ『デヴィッド・ボウイ-変幻するカルト・スター』(2017 ちくま新書1234)

ポップ 芸能

“ロックンロールを基盤に、白と黒が混じり合って目が覚めるような色彩を発するのだ。”*1

 

読みました。

都内某駅前書店では平積みかつ最後の一冊。

 

去年中には色々と、追悼にこと寄せて出版されていたようだけれど、それほど興味のなかっただろう人が、年末の回顧と今になって結構大々的に繰り広げられているらしい催しのための広告に触れて、一寸手に取ってみようかな、という機会のために丁度いいような本はまだ出ていなかった、かも。

終わりまで一気に読んでしまって、そうゆう読書には慣れていないのだけれど、全体のペース配分みたいなことが(一代記でもあるわけだし)意識されるのが面白い。

生まれた時代と場所と変化していく空気と移動については念を入れて、デビューした後の最初のヒットまでの時期についてのあれこれにも詳しく、トム大佐からジギー経由でアラデ、インUSA着の、アルバム単位ではちょっと行きつ戻りつするところも華麗に流し、最初のアメリカ期からベルリンまでの、人によっては一番ネチネチと描きそうなところは、ささやかだけれど印象深い挿話を散りばめて充実していたことを窺わせながらも思い入れることなく、もしかすると世代的にはある意味一番実感があるかもしれない“国際的”活動時期における上昇と下降を、世相との兼ね合いについてなどを避けすぎずに触れつつ、と来て、個人的に好きだったのはこの後の6,7章。

90年代から一時引退までのアルバムはどれもこれも出た時にさっと触れて、....これは、また....いつか聴きなおそう....いつか、その時になったら....となっていたものばかりで(割と評判の良かった『アウトサイド』(1995)でさえも)、『リアリティ』(2003)以外はなーって考えていたのだけれど、突き放すのとは違う丁寧さで叙述が進んでいくので、ん?聴きなおすのは....いま?となったところで(と、『アワーズ...』(1999)を流しながら。いいですな、これ。正直イエモンの人のクレバーな感じのエッセイがライナーノーツに載っていたことぐらいしか覚えてなかった....)、最終章、すべてをひっくり返す(いやそこは、著述が、ではなく対象であるスターの)「ボウイ的瞬間」から、折り返す形でどんなにイメージや言葉が、これから再発掘されるであろう物たちも含めて、残されていても、変化したあとは再現されえない1970年代当時のカルトなイングリッシュ・スーパー・ノヴァの輝きに思いをはせつつ、「同時代」を並走してきたマニア達と来るべきビギナーズのあいだに自身を位置付けてつつましやかに筆が置かれる。

 

ボウイのヴォードヴィルとヴァラエティの国の出自の人らしいところ、あまり日本語で読んだことがなかったので、アンソニー・ニューリー(これもニュー・ウェイヴ期の英国物を聴いているとよく出てくる謎の人だ)について触れながら書いてあって、そーそーってなった。芸能人なんですよね、ある一面では。

ロンドン、NY、(パリを通り過ぎて)、ベルリン、そして世界のあちらこちらで、しかしその街と社会がどのように術において結びついているのか、また結びつきうるのかについての注視については、対象者の目線を背中から透かしてみせようかという著者のユニークな意向が読み取れるようで....

この一年(ちょい大袈裟にいえば)怒涛の如く、出版界~パブリック?な世界での言説と、いわゆるネット言論との間でそれぞれ湧いて出た(という印象を受けるのも、こちらの個人的な)あれこれから巧くバランスをとった(少女マンガ、とりわけ大島弓子について、きちんと書いて置いてくれたのが嬉しい!)ある種の自覚されコントロールされた「チャラさ」(お気に入りの表現なのか何度か出てくる。はっ、ひょっとして、「キャラ」に掛けて!?)に和み入りました。

 

 

 

 

 

 

*1:本書第5章 p.153