『グリーン・ホーネット』(2011)The Green Hornet

"balls!"

DVDで。

キャメロンさんが相変わらずカワユイので良し。

それはおいしいコーヒーを淹れ、あれこれ修理改造できる腕を持っている奴のほうが断然いいよねえっていう当たり前の....。 マーヴェルの社長がポジティブとダメ方向に分化したような二人組が、あれこれいちゃいちゃ小競り合いしつつも何とはなしにうまくいくのがフレンドシップってやつの不思議なところなの?

持つべきものはコウサンですなあ....って。

報道の役割について皮肉るほどの幻想も抱いていないところが、LA(おまえがLで、おれがA!、いつか使ってみたいフックだ)的なのか、ヴェルサイユ流なのかは知らないけれど、たまたま五年後のこのご時世に観ることになったのはなかなか面白い感じ。

寿司を粗末に扱うな!

 

 

『新しき世界』(2013) 신세계

DVDで。

ようやく観ましたです。

 

冒頭、どこかで何度か観たようなRed Headのクローズアップからきたので、ああこの手の....と解りかけると、手際よくグレーを咬ませて、青い海へとロングショット、かっ樽いことはとっとと終わらせる? 

詳しくないけれど(己を見て見ぬ振りができる程度の卑劣にわが身を浸してでも虚実ともに暴力的な事どもからは出来得る限り遠ざかっていたいタチ)、『ゴッドファーザー』(1972)あたりから始まるのかな、ホモソーアクションにおける小ネタ(シークエンス)の残虐、衝撃、工作、等々に分類されもしよう技術の洗練度の競い合いは。

しかしスコセッシ、チミノ、香港、タラちゃん、武に三池、そしてクローネンバーグ&ヴィゴのコンビで履歴の走査と今後のだいたいの展望が提示された後(2008~)は、様式美の更なる追求、または社会問題とのリンク、あるいはオルタネイティブな70年代の再発見みたいな感じ? で、そこに周りの国々のスターたちも巻き込みつつ、アクションからダンスの美しさ楽しさへと社交のイントネイションを移動させることで政治や経済との離接の間合いも目測しつつ、いよいよ人を魅惑してやまない杜琪峰先生が、という(ビッグネームだけでうまいこといってやった風にまとめてすんませんすんません....なんせ己を見て見ぬ....)。

そんなふうに、ふーうん最新のホモソーはこうゆう感じかー、ハリウッド経由の香港王道をキタノっぽく折り返してみるとかかな~っと斜めからモニターし始めたのだけれど、いや、この主な二人(と暗あい感じの初老おじさんとギトギト感にうっとりさせられるノーブルな狂犬さん)イイ! なんだこの893スーツよりアントマンの衣装のほうが俺には似合うんじゃないかねえ....とか内心忸怩たりっていそうな川崎敬三は! そんな男が空港に車でお迎えに行ったらならば当然のごとく出てくるのが、夏八木、ショーケン、蟹江(カニエじゃないよ、どっちかっていえばブルーノ・マースを先取り)とかうわごとを連ねそうになる(銀ちゃん!ってなんだっけ?てゆうかなんじゃこれー!!!(と思わず腐れをまねびて興奮状態を装ってみたくもなるような子は!(しかもちょっとジェームス・フランコも入ってるんじゃないの、スゴい....)

ソウル芸術大学演劇科卒、わーなんていい響きだ―

だから(だから?)ストーリーの中の話の筋や画面についてはよく観れていなかったのだけれど、カーチェイスとか音楽の重ね方などは、あーこれはあえて息抜きも必要だよねえと下手にしてさらりと流しているのか、でもそんなことすル必要ある?それとも?などと、wikipediaを眺めつつ、ん?へー『シュリ』にも出ていたんだ―、あの銃撃戦の編集、アメリカ映画ってやはりレベルが違うんだなあとか....思えば遠くに....

でも、あれ?これはひょっとして実に念入りに(何人かの間で、または時差を置いて複数化した脚本家自身の間で)練られたシナリオでは?と集中し始めて、このジャンルの過去の作品への対し方も、目配せ、オマージュというよりは本当に素直に対話があるなあと実感できて(あれもこれもと天丼されるモチーフの扱い方はその作品と作品間の対話において交錯する手と手のささやかな触れ合いのよう、実にメルヘンチック!)、じわじわと感動してきたところに、あーこれは分かってたってやつでしょ、分かってましたよ、っとなったところでこの、小道具の、この、差し出し方は、どうだ!、え?どうだ!!

と、ここで降参、ワレ投了セリ。

この後もいろいろあって、その上にいろいろあったが、いい感じで観終えることができました。

シンボルが変化していくことの政治との絡まりあいの扱い方もスマートでかっこよくてねえ....

他に、もしかして他にも、このくらいハイレベルのブツがあるんやったら、どうか、ぜひ教えていただきたい、と虚空に一礼二拝である。(やっぱり『秘宝』なのかなあ? でもいわゆるボンクラ感はない、というか、むしろ反対に、いかに社会、というか世の中に、その隅々にまで、もう気づいた時には完全に手遅れであるような形で何かが根を張りめぐらせてしまっているのか、についての怒りとシニシズムの相殺過程についての学び)

 

 

 

 

『クリムゾン・ピーク』(2015)Crimson peak

 

 

https://sweetarchiveblog.files.wordpress.com/2014/07/only-lovers-left-alive.png

アカをつつくと蛇が出....

 

DVDで。

吸血行為が、同性愛、小児愛、近親相姦などのインモラル(もちろん、同性愛とモラルに何の結びつきがあるのかなんて....)(炉りとか近親何とかのことは、どうなっているのかよく知らない、世事に疎いから、まあ何事にも疎いけど....)な傾向と結び付けられてドラマの中で享受されがちなことを批判することには意味があるかもしれないけれど、ヴィクトリア朝あたりの英吉利貴族人種にそういった属性をまとわせて愉しむことの、価値(階級?転倒的なんチャラ(というのはいささか古臭い?、はともかく、その路線で興行を打つ労は報われるはず(トムヒの役はカンバッチさんから廻ってきたんだって)、という賭けがどうなったのかは詳らかにはしない(というか、ちょっと調べてみても付け焼刃ではよくわからず。パシリムの2、監督しないんだねえ....

しかしまあそんなことはどうでもいい。

とっかえひっかえの鮮やかな衣装は斬新過ぎず、デザイナーの意図が出過ぎず、与えられた時代と背景にのびのびと縛られる感じが快いくらいの複雑さで、意図が隠され過ぎて素人には読み解けないのか、それともなんも考えずにここはちょっと派手にしてみました、なのかあいまいなところも。

お屋敷の襞また襞が、しかしほとんど重さを感じさせない装飾(広間の吹き抜け~虚の塔にチリのごとく積む白雪と釣り合う軽さで物語の中を忙しなく上下する昇降機)で、あっさりと全面的に覆われる画面作り。監督の地のなせる技?

小野一郎という写真家さんが、そういったメキシコのあれやこれやに感動してあちらこちらを撮りまくり、『ウルトラバロック - Wikipedia』(1995)というコンセプトで本にまとめていたのが面白くて、そこから架時に遡ってウルトラゴシック(またはメキシカン・ゴシック、なんかプロレス技みたいだけど....)とは何か?それはギル・トロの映画を観てくれればわかるよ!OTAKUだからってウルトラマンゴシックじゃないよ!と主張してみてもいい、かも?(姉に背後から叱咤され、のたりと動き出すトムヒの造り物めいたサファイアの瞳の輝き....

貴族の体面だのスタイルばかっし気にする鰤テクストのインポ(知らんけど)野郎に下手に関わりおうたっばかりにエラいめにおうたわ!ホンマ!しかしワイも生粋のヤンキー、ロハでは帰らへんで!今回の件はきっちり原稿に仕立てておと姉妹つけさしてもらいまっさかい、よろしく!JONAな!!!!

(と、WASP的美意識に別れを告げる事と新しきヨークの地への帰還を同時に果たしたつもりのミアたん*1だったが、ヨーロッパの血の呪縛はそんじょそこらの粘土質なんかよりよっぽどネバ~って感じで....)

youtu.be

おおアメリカよ! 汝、あまりも永く白んぼどものくびきの下に置かれ、又、赤き妬*2みに突き動かされて....(ブヒブヒ)

*1:最後尾、とあたまの正面からのバストショット、誰かに似て....そうだ、クロエ・セヴィニー、欧州にルーツがあることがアメリカ人らしさに重なり結びついているような、

*2:こうゆう漢字って如何なものか!って思います!

ことばに潜む「性差別」を浮き彫りにする「新しい漢字」|WIRED.jp

野中モモ『デヴィッド・ボウイ-変幻するカルト・スター』(2017 ちくま新書1234)

“ロックンロールを基盤に、白と黒が混じり合って目が覚めるような色彩を発するのだ。”*1

 

読みました。

都内某駅前書店では平積みかつ最後の一冊。

 

去年中には色々と、追悼にこと寄せて出版されていたようだけれど、それほど興味のなかっただろう人が、年末の回顧と今になって結構大々的に繰り広げられているらしい催しのための広告に触れて、一寸手に取ってみようかな、という機会のために丁度いいような本はまだ出ていなかった、かも。

終わりまで一気に読んでしまって、そうゆう読書には慣れていないのだけれど、全体のペース配分みたいなことが(一代記でもあるわけだし)意識されるのが面白い。

生まれた時代と場所と変化していく空気と移動については念を入れて、デビューした後の最初のヒットまでの時期についてのあれこれにも詳しく、トム大佐からジギー経由でアラデ、インUSA着の、アルバム単位ではちょっと行きつ戻りつするところも華麗に流し、最初のアメリカ期からベルリンまでの、人によっては一番ネチネチと描きそうなところは、ささやかだけれど印象深い挿話を散りばめて充実していたことを窺わせながらも思い入れることなく、もしかすると世代的にはある意味一番実感があるかもしれない“国際的”活動時期における上昇と下降を、世相との兼ね合いについてなどを避けすぎずに触れつつ、と来て、個人的に好きだったのはこの後の6,7章。

90年代から一時引退までのアルバムはどれもこれも出た時にさっと触れて、....これは、また....いつか聴きなおそう....いつか、その時になったら....となっていたものばかりで(割と評判の良かった『アウトサイド』(1995)でさえも)、『リアリティ』(2003)以外はなーって考えていたのだけれど、突き放すのとは違う丁寧さで叙述が進んでいくので、ん?聴きなおすのは....いま?となったところで(と、『アワーズ...』(1999)を流しながら。いいですな、これ。正直イエモンの人のクレバーな感じのエッセイがライナーノーツに載っていたことぐらいしか覚えてなかった....)、最終章、すべてをひっくり返す(いやそこは、著述が、ではなく対象であるスターの)「ボウイ的瞬間」から、折り返す形でどんなにイメージや言葉が、これから再発掘されるであろう物たちも含めて、残されていても、変化したあとは再現されえない1970年代当時のカルトなイングリッシュ・スーパー・ノヴァの輝きに思いをはせつつ、「同時代」を並走してきたマニア達と来るべきビギナーズのあいだに自身を位置付けてつつましやかに筆が置かれる。

 

ボウイのヴォードヴィルとヴァラエティの国の出自の人らしいところ、あまり日本語で読んだことがなかったので、アンソニー・ニューリー(これもニュー・ウェイヴ期の英国物を聴いているとよく出てくる謎の人だ)について触れながら書いてあって、そーそーってなった。芸能人なんですよね、ある一面では。

ロンドン、NY、(パリを通り過ぎて)、ベルリン、そして世界のあちらこちらで、しかしその街と社会がどのように術において結びついているのか、また結びつきうるのかについての注視については、対象者の目線を背中から透かしてみせようかという著者のユニークな意向が読み取れるようで....

この一年(ちょい大袈裟にいえば)怒涛の如く、出版界~パブリック?な世界での言説と、いわゆるネット言論との間でそれぞれ湧いて出た(という印象を受けるのも、こちらの個人的な)あれこれから巧くバランスをとった(少女マンガ、とりわけ大島弓子について、きちんと書いて置いてくれたのが嬉しい!)ある種の自覚されコントロールされた「チャラさ」(お気に入りの表現なのか何度か出てくる。はっ、ひょっとして、「キャラ」に掛けて!?)に和み入りました。

 

 

 

 

 

 

*1:本書第5章 p.153

嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん(2010)

(....ちのはたらき、が)

 

DVDで。

染谷君が若い!かわいい!(空海の映画楽しみ!)

ロケーションがまたしても素晴らしくて(といいつつ五つのスクリーンのは未見)、これはどこだろう、また横浜あたりの駅から離れた場所(海でも山でも街~世界、世田谷、でもない)だろうか? 白々しい感じが最高。

つくりものでもナイフが苦手。

監督と田中幸子の共同脚本(部屋の中の小道具)。音楽(木下美紗都)も、もしかしたらこういう2010~(と時代に固定しすぎてはよくないけれど、もあったのかもしれないと切なくなるような綺麗さ(と思ったけれど、最近こんな感じ、そろりそろりと復活してきている、かも。

なぜか主題歌(とユーミンのカバー)は今年の大河ドラマの主役の人が歌っているのだった。

 

ラスト。『ニシノユキヒコの恋と冒険』(2014)の別ルート解みたいな(ひもでつながれ誰かに握られ)ふうでもあり、二本立てとかしてみたらいいんじゃないですかね。

 

 

並みの間にマニ

お題「雪」

 

奇即正しい生活が最期の復讐で....(丁度寝覚めた戸この耳みに囁かれるひそひそのネゴとが

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最近は早寝早起きの日々が

おとといもきのうも晴れていたけれどきょうは一面に雲が良い感じに出ていて綺麗

うろこ状、おもい陽光をほどよく和らげて

 

平わのうちに安らぐ、のはくもの子を散らすが如き?

(反?半?ブル?bull?)

www.youtube.com

(Drがいなくなってしまったら、誰が客本のほつれを繕うのでしょう....

、と、切り返す、と

花々の内を延び延びと翅あるもののごとく飯舞う錆がかった....)

 

こたえは、勿論

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清岡卓行『フルートとオーボエ』(1971)

「フルートとオーボエ」(1970)

1.

プロ野球の試合日程の編成から大学のフランス語教師へ。

(左利きの)(俎板の上で、殻のついた牡蠣の口を、ひとつひとつ)

(昨日の夕ぐれとも、一昨日の夕ぐれとも、)(明日の夕ぐれも、明後日の夕ぐれも、)

 

(それらのノート。手垢や埃でかなり汚れ、青や赤のインクのしみがついていたり、背中が)

(骰子の転がり方ひとつで決められるような、無残な別れ)

 

2.

禁酒、禁煙、春から夏

(その扁桃腺の手術のときのことは、ユーモラスな思い出として)

(葡萄糖の注射で元気が出た)

(「家が狭いだろ。だから、ピンポンのラケットと球だけ買ってあげるよ」)

 

(二月中旬ごろから三月初旬にかけての、冬の終わり、あるいは春の始めといった感じの自分が一番)

(同じチームの選手が紅白の二組に分かれ、)

(ついで、都市を移動しながら、他ティームとのいわゆるオープン試合を、なかば商売をかねて)

 

(彼女のそうした、ほのぼのと匂わしい、魅力的な裸を、それとなく眺めるのが、)

(飛行機が、彼の家の上空を)

www.youtube.com

Mozart - Oboe Concerto in C, K. 314 / K. 271k

(爆音がレコードの音楽をほとんど)

 

3.

(垣根には燕 庭には連翹の花)

 

4.

(そのアルファベットの大文字の数は、どうやら六つだ。動き回っているそれらの顔は、G、S、W、D、T、C、というふうに読める。ときどき、PとかRとかAとかが、加わったり消えたり)

(梅雨だろうか? 台風だろうか? それとも、秋霖だろうか?)

 

(「競輪は、儲かりますか?」)

(「ええ、儲かります」)

 

5.

(柱廊のようなところを通って、彼は内部のグラウンドに降り立った。ざらざらとした盲目の鏡のような土の色が、眼にしみる。)

(七分通りか、五分通りぐらいの)

(ビールでも飲みながら、ときたま横に寝そべったりして、のんびりと)

 

(ダイヤモンドの周囲をぐるぐる)

 

6.

www.youtube.com

Mozart-Flute Concerto No 1 in G major, K 314

(あるいは少しばかりの自惚れが含まれているかもしれない想像を、)

 

 

 

「萌黄の時間」(1970)

1.

(〈そうだ、手は、物を投げるためにあるのだ!〉)

(空の青と海の紺が接している)

(一九三三年夏の、大連の一つの郊外、黒石礁の浜辺である。)

 

(それは、日本内地で一番速い特急〈つばめ号〉のスピードを、大幅に)

(まんまるい月の中に、兎が餅を)

(茶色にうすく桃色がかっているような大きな珪岩に、堂々としたライオンの横顔の)

(血を吐き、死んでいた)

(血を少し吐いて、動かなくなっていた)

(星空を背にした大きく白い衝立に、いくらか古い外国のサイレント映画を)

(電気遊園)

(ヤマト・ホテルの夏のルーフ・ガーデン)

(鶏のマークの映写機)

(そのヨーヨーをポケットに入れてしまいなさいと、彼は一番下の姉からたしなめられ)

(ピアノの音が絶え、シェパードがはげしく吠えはじめた)

(〈アウト・コースの低目に、速い球を投げたら、打たれない〉)

(とにかく、気づいてみたら、わりあい新式の飛行機になっていたのであり、そのことは彼にとって、満更でもな)

(左右の翼を気持ちよく感じる)

 

(王八!)

(〈お母さん!〉)

 

2.

(それは、十字架の隙間が、くりかえし横に並んで現れてくる、いわば幾何学的な)

(つまり、いくらか洒落すぎていて、不用心な模様である。)

(最初の絵を手本にした、彼の二度目の絵は、しかし、前のものより、)

 

(〈黄色い恐怖〉)

 

晴雪梅花照玉堂

春風楊柳鳴金馬

 

車行千里

人馬平安

 

(紅い紙と黒い字で、ほのかに魅惑的な匂いのように、そっと)

(怒った顔して)

(にこにこ顔のも)

(戎克ジャンクの白い帆と、マストの上にひるがえる紅い旗)

 

(二年生の終わり頃の二月、彼は危うく死にそうな体験をした。)

(なんともわずらわしい遠廻り)

(それらの二つのちがいを思っていると、彼は世の中がわからなくなって)

 

(桜桃なら桜桃、消しゴムなら消しゴム)

 

(青泥窪)

 

(「ロシヤパン! ロシヤパン!」)

 

(蒐集の趣味は、あるともないとも)

(無駄なわざ、空しい遊び)

(素朴な生活)

(九、十一、あるいは十三枚)

(いわばそうした遊びが密かにかたどっているような、名づけようもないふうどの中にいるというふうに、一瞬)

(ラジオのアンテナを支えている大きな柱に印をつけ、それを野球のバットで)

 

(頑なでさびしい愛着)

(秋が終わろうと)

(〈あじあ号〉)

(蓖麻子油を飲まされずに、綺麗に直ってしまったようなぐあい)

 

 

 

「小説についての断片」(1970)

(〈私が現在意識している自分の小説の世界とは、少し改まって言えば、自分のある場合のポエジー(それはしさくひんではない)に対する具体的な批評が、いくつか、おのずから構成的に集合して、一つの統一体を形づくる磁場である〉)

(〈一方においては、音楽のようにすっきりとした構成と持続をもち、もう一方においては、部分的あるいは要素的に、いわゆる小説らしい構造からなかばはみでるところの、生臭い記録性をもつこと〉)

(〈moderne〉)